Kiriko Diary

何でもない普通のブログです。暇つぶしにでもどうぞ。

ブログタイトル

Royal Wedding - 世紀の結婚

5月19日土曜日、イギリス王子Henry Charles Albert DavidとRachel Meghan Markle女史の結婚式が執り行われた。

英米の各メディア挙って結婚式の様子を報道し、私もそのいくつかの映像を招待客が集まるところから観ていた。

この結婚式には主に芸能人やイギリスの首相やカナダの首相などが招待されていたが、この結婚式を正に印象付けたのは、祝辞を述べた神父のMichael Curry氏であろう。

 


Love is the way | Bishop Michael Curry's captivating sermon - The Royal Wedding - BBC

 

"From the Song of Solomon, in the Bible: Set me as a seal upon your heart, as a seal upon your arm; for love is strong as death, passion fierce as the grave. Its flashes are flashes of fire, a raging flame. Many waters cannot quench love, neither can floods drown it.

"The late Dr Martin Luther King Jr once said, and I quote: 'We must discover the power of love, the redemptive power of love. And when we do that, we will make of this old world a new world, for love is the only way.'

"There's power in love. Don't underestimate it. Don't even over-sentimentalise it. There's power, power in love.

 

聖書のソロモン王の詠から:私をあなたの心に封印してください。あなたの腕に封印してください。何故なら愛とは死するように強大であり、情熱は墓の様に恐ろしい。炎の様に光を放ち炎立つ。大量の水も愛を静めることは不可能であり、溢れる水も愛を飲み込むことはできない。

故マーチンルターキングJrは一度言われた:愛の力を見つけなければならない。愛とは救済の力である。そしてその愛を見つけた時、世の中を新しく変えられるのである。それができるのは愛のみである。

愛には力がある。愛を軽んじてはならない。また酔い痴れて溺れてもならない。愛とは力であり、愛には力があるのである。

 

Michael Curry神父のこの祝辞は、この結婚式に出席した人々全て、またこの放送を見ていた人々個々の心に深く印象を残すこととなった。

王室はそして王子は今、黒人と白人の人種を受け継ぐ一人のアメリカ人女性を家族に迎えた。

欧米の特にアフリカの現地から黒人を奴隷として「使用」していた歴史、そして人種差別の歴史と現代に至るその問題を根底から照らした結婚式であったと思う。

 

そして神父のこの言葉は、この結婚の全てを物語っていると思う。そして最後に一説。

That's what love is. Love is not selfish and self-centred. Love can be sacrificial, and in so doing, becomes redemptive. And that way of unselfish, sacrificial, redemptive love changes lives, and it can change this world.

これが愛なのである。愛とは我欲ではなく無私である。愛とは犠牲的であり、そうであればこそ救済になるのである。無私であり犠牲的であり救済的な愛により、人々が変われば世界が変わるのである。

実にそうあって欲しいものである。

Henry王子はMichael神父の祝辞が終わるとMeghan女史を見つめて、「Yes」と呟いた。

 

もう一つこの結婚式での注目点は、Prince Williamの隣の席が一つ空席になっていたことだ。この席は何のために空席だったのか。これはHenryとWilliamの母故Diana妃の席だったそうだ。

 

 

 

 

湘南の米

最近スーパーで湘南のコメを買った。「はるみ」と名前がついている。

今まで、魚沼産コシヒカリとか北海道の米など米どころが産地の米を主に食べて来たのだが、湘南の米という文字が目を攫った。

 

買って家で炊いて食べてみると、コシヒカリに比べて粘りがなくサラッとしている。口に残らないのでサラサラと軽い食べごこち。新しい味でいいかもと思った。

その土地に出来るものは、その土地にあった食べ物ということだけあって、その食べ物を食べる人もまた、この食べ物のような性格だったりするのだろう。

 

サラッと爽やかで後を引かないが、しっかりと空腹も満たせる。そんな人たちが住む場所なのかと思う湘南。

ま、いろんな人が出入りしているけどね。ネットリした人も濃すぎる人も、クドイ人も。

 

 

田舎者

首都圏で生まれて育ったら田舎者とは言えないだろう。

首都圏に流入してくる地方人が多く、このあたりのことを知らないものが増えている。首都圏特にベッドタウンとして東京近郊で名高いのは神奈川県。千葉県の東京に近い場所。それ以外は首都圏というにはどうだろうと思う。

 

首都圏の定義は、日本では「首都圏整備法に基づき整備・建設された関東地方1都6県(茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県)と山梨県を含む地域である。日本における首都圏の範囲は、本法において定義されている(首都圏整備法#首都圏の定義を参照)。」となっている。また、近年東京圏という言い方もありそれも「各種の統計資料等では、東京都心から50km - 70kmの圏内(東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県、茨城県)、あるいは東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県の1都3県を、「東京圏」や「東京都市圏」として定義する事例が多く見受けられる。

近年、内閣府を含めた官公庁や民間団体が「首都圏」という言葉を、東京都区部及びその近隣域を指す「東京圏」や「東京都市圏」の範囲として用いている例がある。」ということである。

 

つまり、これ以外の都市は東京圏とも首都圏とも言われず、地方という事になる。地方から流入してくる人については、近年の若者についても首都圏の都市を知らない。「憧れの〇〇な生活ができるぅ〜」という東京の地名は田舎者は知っているが、それ以外は周辺の地理については何も知らない。

 

こういう田舎者がエージェントで仕事をすると、首都圏あるいは東京圏の駅の名前もわからず、交通費の精算でモタつく。いい加減にしてほしいものだ。例えば、「表参道」は知っていても、「磯子」や「みなとみらい」は知らないなど。そんな「最近の若者」が多い。また、首都圏の生活をしたことがないので、首都圏の交通路やその関連の事情がわからず、指示が抜けるなどが多く、非常にイライラすることが多い。この2018年にWebsiteとかInternetで検索すれば調べられるということもわからないのだろうか。

 

やはり皆生まれ親しんだ土地での生活が楽なのではないかと思うが。つまり地方の者は地方で暮らすのが一番で有り、首都圏で暮らす者に迷惑を掛けないで済むだろう。こういう人たちはまた、盆暮れ正月には西に移動するため、首都圏の交通はガラガラ。電車も遅れなくて済む。田舎者は田舎へ帰れ。

都会暮らし

先日から何回か書いていたのだったが、何故か突然断線して消えてしまい、書いたことが全て消えてしまった。昨日書いたことは、また後日書くとして、しかし、朝からこのカフェは朝8時から開くのだが、人が良く集まってくる。人気の場所でもあり、人が集う場所でもある。今は春休みとあって子連れの親子が多い。子供をカフェのソファーに寝かせている母親、その横でその母親は別の子供をあやしている。別の席には3人の子供を連れた父親。子供に本を見せている。こんな光景を見れるのはここが都内から1時間ぐらい離れた住宅街だからだろう。企業ビルが立ち並ぶ都会では決して見ることがない光景だ。

 

都内に住んで20年。気が付いたら20年経っていた。20年前は若かったなぁ。ま、でももともと都内近郊で生まれて育っているので、「東京」が珍しいわけでもなく、学生時代に殆ど行くところは行き尽くしているので、どこを見てもトキメキはない。ただ、交通の便が良いので睡眠時間が取れるのと、職場にしても30分以内で行けるので時間に余裕ができる。それは便利だ。毎日銀座で買い物するわけでもなく、殆どが会社と自宅の往復だが、それで十分で何処へ行くにも便利。地方もこんな風になれば良いのにと思う。

 

西では大きい都市というと、大阪、京都に名古屋だろうか。そこだけではなくもっと発展したら良い。都内にいると何処にでも企業が本社を置いていてそれもあまり良い事ではないように思う。なんでも東京と言うのはつまり、価値観が統一されていない地方の人にとってはアイデンティティーを持てない場所であり、それが東京なのだが、それを勘違いする人もいる。東京とは地方からやってくる人の集まりで、別に「都会」というそこに住む人が何か特別なわけでもなんでもない。地方からやってくる人は大抵その人の「東京=都会」のイメージを持ってやってくる。が、それはその人のイメージであり、現実は東京とは行政地域であり、行政の指示が最も厳密に的確に最も早く届くところである。なので、行政の事情が直接反映する場所での生活は心地いい場合いもあるが、そうでない場合もある。

 

税金面で言えば、日本一高い場所と言える。兎に角税金は高い。税金を支払うために仕事をしているような気がしてくるから、高額が得られる仕事を探すなどという事になる。兎に角高い。それと家。家の価格も高い。大した面積もないが兎に角高い。庭もないマンションという40平米程の箱に新築なら今時40,000,000円は下らない。こんな所を終の住処とするのだろうか。都内には中古のマンションが安く目に留まる。リフォーム業者が安く売り出すマンションもある。そんなところは建物の外観は古いが、部屋の中に入ればモデルルームのような部屋を手に入れることもできるだろう。が、所詮はマンション。半ば老朽化している中古マンションの建物自体の構造を建て替えることはできない。

 

あたしが知っている都内で生まれ育ったという人は、今も都内のその人の親からの所有のマンションに暮らす。が、税金が高くて日常生活は「都会」という地方出身者が「夢見る暮らし」とは程遠い。毎週土日には千葉のホームセンターまで出かけて5,000円分の安い食材を買い込み、毎年ワゴンセールになる1着1,000程のセーターを毎冬買い換える。毎冬買い換える理由は、ワゴンセールの服は1年も経てば着れなくなるからだ。しかし、都内の良い物を売っている場所、都内の歴史は良く知っている。なのでその人から貰う贈り物は確かなものが多い。日常の暮らしを考えなければいい生活かもしれない。

 

子は親を選べないというが親も子を選べない。また、そんな親子家族が暮らす土地もよっぽどの理由がなければ、そうそう引っ越すわけにもいかないのだ。終の住処というのは暮らしに気持ちが満てる場所で、気持ちが休まらなくてはならない。都会には地方から様々な人々が流入してくる。そんな色々な人々とどう心地よく暮らして行けるのかを模索するのも都会なのである。

 

 

 

依存

毎日が忙しいと、ついつい自分の事は二の次になりがち。

こうなるのも、日本人の特徴的性格の「人に尽くすのが好き」という所から来る所為なのだろうか。

 

でもあたし本人は「人に尽くすのが好き」なんて思ったことがない。人に認められれば嬉しいし有難いが、だからと言って「尽くすのが好き」なんてまるでMじゃないか❗️

 

そんな気持ちはないなぁ。ま、でも強いていうなら「困っている人が喜んでくれると嬉しい」というところだろうか。

 

「人に尽くすのが好き」と「困っている人が喜んでくれると嬉しい」には大きな違いがある。「人に尽くす」となると「尽くす対象」がいてその対象に対して「奉仕する」のだから、ある特定の対象者に対して奉仕する事になり、そうすると、半ば奴隷的な奉仕となってしまうことも多少否めない感も出てくる。が、「困っている人が喜ぶ事をする」となると、これは対象者は困っている人であるが、不特定多数であり奉仕であるかもしれないが、ボランティアでもないかもしれない。報酬も貰うかもしれないが、困っている人がこちらがサービスを施す事で楽になる事、つまり「奉仕」に含まれる暗黙の「奴隷性」のような意味合いも薄れてくる。

 

ま、「人に尽くすのが好き」なんてあたしには出来ないかな。日本人は要するに、M的な性格の人が多くいて、「人に尽くす」=「自分に対する価値」と思う人が多いのではないのだろうか。正直あまりこの度がすぎると、病気である。いわゆる精神疾患でいうところの「共依存症」。気を病んでしまうのだ。

 

親子の関係、夫婦の関係にも「依存」が関わる、自立出来ない夫なり息子なりが見えてこないだろうか。「依存」とは「頼る」という事だが、相手に期待して乗っかるのは甘えだろうが、上記のように人に尽くす事で相手の中にある「必要とされる自分」に価値を見出す、その精神的な期待値が大きくなればなるほど、相手が必要とされるように相手を「依存させる」というところに、自己の価値観を満す、という「習慣」が出来てしまう。

「もう〜、〇〇ちゃんたらぁ。ママがやってあげる」とか「〇〇くんは私が居ないとダメなんだから」とかは、その初期傾向だと思う。

 

自立出来ない息子はやがて自立出来ない夫になってゆく。女も然りか。

 

 

 

DMN

星占い的には色々と言われる空の色だが、年齢と体力は天空の空とどう関わっているのだろうか・・・

 

最近は集中する事に物凄い体力の消費を感じる。体力というよりは脳力というべきか。

 

脳の疲労が負担になる。これはいつの年でもそうなのだが、最近は同業他者の悪い例ばかりを見てきたせいか、勢いが無くなっている。

 

10年前にしこたま頑張って、脳疲労もトレーニングをしている証拠とばかりにかまけていたが、同業他者のズルを発見するに、そのトレーニングもバカバカしくなってきた。

 

こちらはここまでこんな努力をして時間も割いているのに、他者さんはこの程度でこれだけ頂けるんですか!!!って。まるで真面目ものが損をする様な・・・。

 

お陰で酷いですよね、就労環境が悪くなる。それのみが原因じゃないけど、誠にひどい。

 

ロボットと仕事したらいいのにね、って思うよ本当に。

AIだってね、どんな情報を事前に仕込むかで変わってくるから、仕込むまでは人間の作業だからね・・・

 

そんなこんなで、疲れたり嫌気がさしたり。

 

DMNこれが最近気になる言葉になった。

怒涛の週

いやはや、今週は怒涛の週だった。

 

一昔前はこんな事も然もありなんだったが、最近はそうでもない。

 

まずプレゼンのブリーフミーティングをインド人と行い、そのミィーティングがそもそもキツイ。休憩時間なしで、やたらと話す内容をまくし立てるようなやり方。話の順を追っていない。延々と兎に角彼らが話す事を説明する。こちらの事はあまり御構い無し。ま、気を使ってもくれているが、あまりやり方としては好感を持てない。

 

システムの内容はわかるので、進行順序とか話す本人が何についてどんな言葉で話すのかをもっと重点的にやるべき。そちらのシステム案件よりコレをプレゼンする相手側にはどのような言葉に変換したら良いのか、という事をもっと重点的に点検すべきなのだ。が、わかっていないんだよね。

 

いやはや、そんなだから本番はもう順序も何も「聞いてない」順番で始まり・・・手順がなってませんでした。

 

しかしそんな彼らとのやり取りの中で、印象に残ったことが一つ。「インド、日本、中国のような発展途上国」って言われたんだよねー😅

コレには痛かったな・・・。