Kiriko Diary

何でもない普通のブログです。暇つぶしにでもどうぞ。

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占い師考察

ここ数年巷では、高学歴な占い師が有名になりブログや雑誌などでその腕をふるうかの如く、鬩ぎ合っているのを目にする。

 

あたしもその「巷で有名」な幾人かの占い師に過去に鑑定を依頼したことがある。「占い師」とは職業形態としては「自営業」であろう。人のプライバシーや悩み、問題などを聞いて考え話をすると言う点では「コンサルティング」のような部分も担っているのだろうか。会計コンサルタントが帳簿と計算機を道具とするところ、占い師は「ホロスコープ」や「タロットカード」「ルーン」が道具になるのだろう。

 

しかし、コンサルタントや自営業と言うと聞こえは良いが、「占い師」となるとその内容は「?」。有名どころの占い師は、依頼をすると一見腰低く丁重ではあるが、その実「プライド」が高い。プライドが高いだけならまだしも、重ねて失礼な占い師の多いこと。非常に失礼な占い師が多いように思う。

 

これは最近起こった事。以前個人鑑定を行ってもらい、大変当たっていたのでお礼と感想を書いた。するとその占い師からブログで採用したいとの連絡があり、一つ返事で快諾。占って貰ったし、なかなかやはり学歴もさることながら、占術の知識も素晴らしいと、感銘もしたものだった。また何か心に迷いが生まれたならば、鑑定をお願いしようかと思った。鑑定料はその学歴や占術知識もあることからか、駅ビルの占いコーナーの占いとは比べ物にならないくらい高額だ。こんな占い鑑定はあたりこそすれ、外れたら「2度とごめん」と言いたくなるだろう。ま、そんな憂き目に遭わぬよう、流石に高学歴だけあって、知識に対する向上度は感心する。

 

が、プライドと失礼な態度はその知識の深さと技量の幅に対する評価も、あっけなく地に落としてしまうのだ。

その占い師は、鬱を患った事のある占い師(*と*こ)であり、各言葉の端はしにその神経質さを彷彿とさせる。喋り言葉ではそれなりに装っているが、顔が見えないメールでのやりとりなどは、その性格そのものが現れてくる。一度相談という形でお伺いをたてると、今までの穏やかな喋り言葉のやりとりとは急に一転し、「このようなメールでの相談を持ちかける行為を規則違反という」と述べ、その占い師の彼女が述べる占いの見解には一語一句金を払えと言い、「以降占いサービスの利用を差し止めるかもしれない」というメールを送りつけてきた。そのような書き方をしなくても、「それならば個人鑑定をご利用ください」などと書いて送ればそれで済む話である。それをああ書かれたのでは、穏やかではない。「メールがジャンクメールボックスに入っていたから気がつかなかった」とも書き送ってきた。この人の人格レベルが知れる。ついでにお育ちも知れる。

 

「ほほう。この人はやはりこういう人か。」と思った瞬間だ。この手の占いの受付や相談ということに対して、別の窓口を設けている占い師もいる。そちらの担当者はどうかというと、さながら有名どころの占い師の「受付嬢」であるかの如くで、こちらが間違った内容を書いていても確認もしてこない。そのままイギリスに住むロシア人占い師に間違った内容で鑑定依頼を出し、その間違ったままの鑑定結果が帰ってくる。

 

往往にして占い師とは、どこか応対はハスに構えて偉そうで、そして何が理由なのかプライドが高い。「変に気取っている」ように見える。仕事に対するプライドや、鑑定に対するプライドが高いのなら、正直に鑑定について己の占術の力に責任を持つ事を優先するだろう。が、単に高学歴で知識があり、有名どころとなると鼻持ちならない。こちらが腰低く丁重にしていても、気に入らないとつっけんどんだ。こういう占い師と割とよく出会う。

 

話を元に戻すが、その占い師は女性だが、あたしの感想文を自身のブログに採用しておきながら、相談のメールに対してはつっけんどんであり、冷静に対処する能力に欠ける、または、持病の精神病が災いするのか、極端に神経質になりヒステリックな様子が、彼女の書くメール文の端はしに見て取れる。尋常じゃない精神の不安定さが露呈しているのである。

 

「占いに行く」「占い鑑定をしてもらう」とは自らの悩みを、当たる「かもしれない」が外れる「かもしれない」という博打のような解決の仕方で「模索」するのであり、今回の出来事を通じ、それを商売とする方は何らかの問題のある人々、という気もしてきたのだ。ま、問題のある人が当たるも八卦をやるのだから「高額」になるのかもしれない、つまりリスクを取らされているのは我々の方であると、思うようになったのだ。

 

別の占い師の講座も受講して見たが、この占い師は九州に住む。2011の震災で人生観が変わったとかで、都内から一挙に九州にまで生活の拠点を移した人だ。この人は占いのウンチクは何とも色々あるとは言わんばかりに、ツイッターでは書ききれんばかりに連投するのだが、何ともやはり「プライドの高い」人で、講座の中で「iPhoneiPodより先に生産された」というので、それは違うと指摘すると逆ギレした。

 

ま、占い師とはこの程度の何かしら、性格的あるいは精神的に問題を抱えた人々であるような印象が拭えないのである。

 

有名どころの男性占い師にも鑑定をして貰ったことがあるが、この人の占いは・・・当初あまり当たっているという印象はなかった。鑑定を受けたのはもうかれこれ5、6年も前になるだろうか。先日片付けをしていて、その彼が書いてくれた鑑定メモが出てきた。グラフやら図やら色々と書いてある。その脇に書かれた図の説明に目をやると、その内容は、今になりハッとさせられるものだった。

 

占い師とは一癖も二癖もあるような、あまりこちらから何もかも安心して両手放しで安請け合いしてはいけない人物なのかもしれない。

 

 

カメラ3

近頃は様々なアプリケーションが出来ていて、写真も撮ったらすぐにそのアプリケーションで加工すれば、様々に自分の表現を投影できる。

アプリケーションのお陰で、一眼レフで撮ったような影もできるし、ぼかしも出来る。なので、「カメラで写真を撮る」という行為がどういうことが考えさせられてしまったりする。

カメラでなくともスマホの解像度や写真撮影方法もかなり改良されて、スマホでも綺麗に写真が撮れるようになった。コンデジスマホはだんだん差がなくなってきているとも言われている。更にこのアプリのお陰で、様々な効果を投影した写真も作成できるようになった。

スマホはあくまでもスマホでありカメラではないが、しかし、写真を撮るデバイスとして考えると、最近はカメラを買う意義を考えてしまう。

カメラは重いし、スマホは手軽だ。

しかし、望遠レンズなどでより様々に写真を撮れるのは一眼レフかも知れない。

カメラとスマホスマホコンデジ、高級コンデジと一眼レフ。なかなか興味深い展開が将来待っているかもしれない・・・。

 

奢り

以前行きつけのマッサージの先生がいた。

ツボやら東洋医学やらを自ら独学で習得し、資格を取りマッサージに整体もやっている。一度はお抱えマッサージの先生にはなったが、その後自らのマッサージ院を立ち上げた。

マッサージは時間単位で幾らと他のマッサージ院と変わらないが、単価が他院より高く、初めはどんなマッサージかと思った。しかし、行って施術してもらうと、その価格の高さと効果に納得。マッサージは心地よく、決してもみ返しも痛みもない。翌日は、ウエストが指一本ぐらい細くなっている。全身が軽くなったような気がして、背中もスーッと伸びるような気がした。硬くなって凝っていた肩こりや腰痛も、気がつけば治っていた。

しかし、こちらの方は暫くして忙しくなり出張も多くなり、4年ほどご無沙汰してしまった。途中なんども行こう行こうと思いながら、価格が高いこともありなんとなくやり過ごしてしまっていたが、先日久しぶりに行ってみた。

あの肩や腰が楽になる感覚が忘れられなかったのだ。予約も以前より簡単に取れた。以前は3週間前に問い合わせないと、予約もできなかった。が、今回はすんなり取れた。そして行ってみると、先生の態度が以前と違っていた。

施術をしてもらっている間に、先生に以前マッサージしてもらっていたことを話すと、「一番忙しかった時だね」と言われた。今はどうかと聞くと今は当時の半分ぐらい、とのこと。ま、ご時世もあるのかと思ったが、先生のマッサージの仕方を考えるに、やはり以前とも違う。雑なのだ。そして、先生が以前言っていた一番悪いマッサージの仕方である「時間内にもみほぐそうとして急いで力を入れると、もみ返しになるし、変な力の入れ方をして新たな問題の原因を作る」というマッサージの仕方をしているのである。

客が半分に減ったのが嫌なのかなんなのか・・・。

話を続けていると、「最近では新患者よりリピートでくる人の方が多いし、リピートの人はありがたがってくれる。そんなもんだ。」というのだ。

しかし、思ったが、こういうマッサージの仕方にこのような態度だと、自ずと客足は遠のくと思う。そして彼の商売も売上も縮小して行くのだ。

この人のこの一言と、このマッサージで私も次回に行こうという気が無くなってしまった。腕のいいマッサージをする先生なのにとても残念な気がした。

 

カメラ 2

カメラを返品する間に、ちょいとそのほかのカメラの性能も見てみることにした。

調べて買わなかったのかって?調べたつもりだったのだが、それ程詳しく調べたわけではなかったのだった。

当初買う予定にしていた「コンデジ」。コンデジは調べてみると、価格は2万円前後から20万ぐらいまでと様々なコンデジがある。性能は画素数で言えば、一眼レフの方が高いが、コンデジも価格が高い製品になると画素数もそこそこ一眼レフともあまり変わらず、一眼レフと変わらない撮影も出来るのである。こう見ると一眼レフの方が安いのかもしれない。レンズを固定している代わりに、様々に一眼レフに劣らない機能をつけると高くなるのだろう。

ミラーレスも最近ではレンズの付け替えもできる物もあり、もうどのカメラを選ぶかとなると、好みぐらいしか差がなくなってきていると思う。

最近カメラはどれを買ってもそこそこの撮影が出来る様になっている。カメラの方で設定もできれば、もちろん自分の意のままに設定することも可能だ。コンデジであろうと一眼レフであろうと、出来栄えにはあまり差がないのだ。強いて言えば画素数による仕上がりだろう。

レンズの脱着を考えればコンデジは無理と思うが、しかし何がしかのレンズをつけたという人もいるし、月や天の川の撮影もコンデジでも可能だ。

あとは重量。やはり一眼レフは思い。レンズも運ばなくてはならない。その点コンデジはレンズと本体が一体型なので、コンデジ本体一つを運べば良いのだ。

やはりあとは、目的と用途でどの重量のカメラをどのようにして持ち運ぶのが、使用する人にとって「良いのか」という、やはり好みになってくると思う。

もちろん、コンデジと一眼レフの両方を持っているに越したことはないが。

やはり一眼レフにしておこうかな・・・。

 

 

 

カメラ 1

カメラを買った。

カメラを手にすると何故かフツフツと沸き上がる気持ちがある。

よく分からないが、そんな気持ちを追いかける様に、日頃から「ここ」と思うとスマホで写真を撮りまくっていた。

そして何かのきっかけで、そうしてスマホで撮った写真のいくつかを、写真サイトにアップしていたら、それら写真が海外の某写真配信企業の目にとまり、数枚がプレミアムになり、うち2枚が売れた。

そんな事がきっかけで、写真撮りを勉強しようかと思い、先日近くの安売り家電ショップに行った。実はコンデジでいいと思って買いに行ったのだった。というのは私の場合、それ程熱狂的にあちこち撮影に歩くというほどでもなく、思いついた時にあるいはいい風景があれば撮る程度のことで、カメラを持ち歩くには軽いスナップショットでちょいと工夫ができる程度で用は足りると思ったからだ。

店に行くと店員がそそくさと近づいてきた。おすすめは一眼レフ。友達も一眼レフを持っているし、彼女は魅力的な写真を何枚持っている。一億総カメラマンと化したカメラ熱狂者の多くは一眼レフを持ってる。なので、店員も私がさしずめ買いたいのは一眼レフと思ったのだろう。

店員の話を聞いているとこの機種はWi-Fiで繋げられるから、写真を撮ったら即座にスマホに送信する、などなどその一眼レフカメラは最新である様だ。実際に撮ってみたりすると、一眼レフカメラは画素数も多く、コンデジに比べ写真の写りが滑らかで、単純にその辺の店内を撮影しただけなのに、なんだか綺麗に撮れる。そこに気持ちがだんだんと寄って行ってしまった。

そしてその一眼レフカメラを店員の勧めるままに購入し、アクセサリーも購入し、店を後にして、その一眼レフを作っているメーカーのプラザのある銀座へ行ってみた。そこもその店員のお勧めだった。

そこで購入したカメラの説明を聞いた。取り敢えず撮り方だけでもちょっと知っておきたいと思ったのだった。メーカーの人の話を聞いて、だんだんとあれ?と思うところが出てきた。どうも家電屋の店員のカメラの性能説明と、メーカーの人が話すカメラの性能が違っているのだ。スマホとリンクさせるアプリも家電屋の店員が言っていたものと違っていた。そこで、買ったものを返しに行こうかと一瞬思ったが、しかし、この実際に購入したカメラは、店員の説明こそ違ったが、私の希望にはあっていた。店員の説明とは違う性能のカメラを買ったが、そのカメラは実は私の期待通りのカメラだったのだ・・・。

「説明と違うものを買わされた」と裏切られた気持ちもあったが、実は店員の勘違いは転じて、私の希望を叶えてくれたのだった。そしてそのメーカーの人の話によると、幸い1席だけこのカメラについての無料の使い方講座が空いている、というのである。

これまたラッキーな話である。そこでどうしよう・・と悩んだ。一眼レフカメラのレンズ付きセットは通常価格に比べ大変お得で、その家電ショップのポイントも加えて買ったので更に安く購入したので、返品するのも勿体無い様な気がしてきた。

今まで、写真のアプリでちょこちょこフィルターをかけたり色を変えたりして遊び半分で写真をとってきたものの、ここでちょいと本格的に撮って見ても良いのではないかと、気持ちがよぎる。

フォトマスター1級を持つ家電ショップの店員は、写真撮りのマスターかもしれないが、機種についてはあまり知識がなかったのである。そんな店員の販売戦略に載せられた様に思えば悔しいが、しかし、良いチャンスと思えばこれもまた得した気分にもなる。

一眼レフは重い。写真を撮りに行くなら、持ち運ぶ時の別の荷物との重さの兼ね合いを考えてしまう。返品しようかどうしようか、お店に電話して1週間の猶予をもらうことにした。

運転免許

先日の交通事故ニュースで、車のドライバーは90歳のお婆ちゃんだった。

家族もいる人で、意識もしっかりとしていて、警察での事情聴取には「免許返納を言われても、返納する気は無かった」と自らの意思を明確に伝えている。

人生100年と言われるこの現代。例えば、免許を70歳で返納して凡そ残りの30年を車なしでどう移動し、生活するのか。これは老人が、というよりはいまの若い人も将来、60、70を迎えることになると考えざるを得ない現実になるかもしれない。

都内に住んでいると、地下鉄に乗れば大抵のところへは30分もあれば行けてしまう。地下鉄の駅は大抵街の中心に位置していて、銀座なんかは大手デパートの前に地上出入り口があったりする。非常に便利だ。大抵の場所へは30分だが、隣駅まではものの2、3分で着いてしまう。更に便利だ。実は隣駅まで歩くと15分なのだ。この距離に地下鉄の駅がある。こんな環境であれば、車などなくても移動は簡単なので、生活経済を人生の中心に考える現代の若者などは、車を買わない。ま、ごく当然の環境といえる。

ところが、この事件が起こった地域の様に、車で運転をすることを移動手段として余儀なくされる様な地域では、日常生活において移動手段が外出の際の重要な選択肢になる。駅周辺のマンションなどに住んでいる場合は別として、地方では戸建ての住宅地も多い。そこからの移動を70を過ぎた老人が徒歩で移動するのは大変だろう。ではバスを利用すればいい、とは言えどバスでは小回りが利かない。では自転車は・・・となるだろうが、2輪でバランスをとって足で漕いで起動する乗り物を、果たして70を過ぎた老人が、その体力の元でどれくらいの距離を移動できるのだろうか。

この地域にはコミュニティーバス(都内の江戸バスと同じ)があり、比較的近隣を走る小さなバスなのだが、地域に乗り入れているバスとの乗客の乗合比率を考慮してか、1時間に1本しかない。

これでは公共機関を利用すると、移動に不便極まりないのである。そこで車が便利となる。最近ではシェアカーが出てきてもいるが、「今」という時に使えるのは、やはり自宅にある自分の車となる。

体力がなくなってくる老人には、ハンドルを回すだけで様々な場所に移動できる車は便利極まりないであろう。

今や自動車会社では自動運転車の開発を進めているが、果たして、その自動運転車を買うのに資金がどれほど必要なのか。それも課題だろうし、いつその開発が終わり完成品が世の中に出回るのか、これも考えなくてはならない。そして、昨今若者は自動車を買わなくなってきている。これはシェアカーの普及にもよるが、その若者が老人となった時、免許を返納するとこのシェアカーも運転できなくなる。

この移動手段と人生100年を、公共機関は今一度考え直さなくてはならない時期にきていると思う。

 

マイクロプラスチック

最近のMy神経質で注目されるのが、「マイクロプラスチック」。微細に粉砕されたプラスチックのことで、重大な海の環境汚染の原因の一つになっている。

実は最近魚をスーパーなどで見る度にこのことが思い出されてならない。これは神経質だからということではなく、原発事故で他国が日本の食品の輸入制限している程度のことと同じだと思っている。

海に流れ着いたあるいは海に捨てられたプラスチックは、海の水に洗われて形を変え、またはそのままの形で時に魚の口に入る。魚が餌と思うか思わないかの如何に寄らず、魚は口に入れる。そのプラスチックは消化され、あるいは半ば消化され、その時点で魚は死ぬのかもしれないが、その魚を大型の魚が食らう。そしてその大型の魚が死ぬかもしれないが、その魚をまた別の大小の魚が食らう。

このようにして食物連鎖が起こり、魚の体内に取り入れられたプラスチックは、微細に消化されて、魚の体内に取り入れられて行く。

そして人はその魚は漁師により海から引き上げられ、スーパーの陳列棚に並ぶ。

 

実はこのプラスチック、日本の生産量は世界第3−4位。国内の生産はリサイクルシステムが整ったのか、2007年をピークに減少してきてはいる。石油価格の高騰や人口の現象で、生産量は減るかもしれないが、その間も魚は海に流れ込むプラスチックを食べ続ける。そして海の環境を犯した我々の元にそのプラスチックは、微細に粉砕されて我々が日々口に入れる食べ物に海中で取り込まれて、戻ってきているのである。

 

因果応報だろうけど、やはり享楽を享受するならその結果を考えておくべきだ。これは生きていてそう思う。環境汚染ではなくても。