Kiriko Diary

何でもない普通のブログです。暇つぶしにでもどうぞ。

ブログタイトル

帰国子女という悲劇

しかし、それにしても帰国子女の英語は分かりにくい。訳すとわかるが、英語を喋っているようで、実は彼らの英語は文体が英語ではなく「日本語」なのだ。訳すのにいちいち止まって考えなくてはならないことが多く、厄介だ。

 

帰国子女は1980年代に増えただろうか。英語が喋れる帰国子女を見た親が、うちの子もと、自ら子供を海外へ放り出して英語が喋れるようにするために「留学」が盛んになった頃だ。

 

英語や語学関連の「仕事」は間口が広い上に、日本人の語学能力レベルは未だ低く20年前とさほどどこの教育機関へ行っても変わらないため、「英語が読み書きできる」となれば、「国際関係」の部署へ回され、あるいは通訳なども任命されたりする。語学教育だけでなく、教育全般に国が力を入れない歴史の元、民間が手探り状態で様々なやり方を模索し「英語教育」が作られてきているのが日本である。

 

子供の頭が柔らかい時から語学を学ばせた方が良いと、小さな頃から海外に行かせる大人もいる。実はそこが語学教育の大きな間違え。

 

言語能力とは「聞く」「書く」「読む」「話す」が全て一つになって言語能力になる。だから海外に行けば全て身につくと思うのが安直で、そこに大きな落とし穴があることが分からないのが、低学歴で学のない大人の考える現実である。

 

この4つの能力が活きるのは、実はその4つの能力を活かす能力が身について初めて活用できるのだ。それは何か。この4つを連携する1つのものである。それは「意味」「概念」といった思考の基盤である。それがないと「読み書き聞く話す」は、少なくとも人間の世界では意味がない。

 

物事の意味がわからないうちに、海外へ人間を送りそこで何を経験させるのか。実は帰国子女とは日本も海外の現地のことも半分づつくらいしかわからない「中途半端」な人間になるのである。

 

その実日本のことも知らない、海外のことも知らない。が、現地にいた数年あるいは数カ月分の体験は体得した。それだけなのだ。基盤となる思考の底辺にある「概念」を司る物事の「意味」を把握できないまま言葉をかじる。そのレベルで文を書かせると、上記のようになる。外人からも日本人からも、何を書いているのかわからない、何を喋っているのかわからない。喋っている帰国子女本人もわかって喋っていないことはわかっているが、周りの日本人が外人のいるところに連れまわすから、大見得切って堂々と外人の前で意味不明なことを話す。外人は常に「???」である。

 

あたしは幾度も帰国子女と仕事をしたことがあるが、彼らの英語はに関してとある職場で、アメリカ人からもイギリス人からも「一体何を喋っているのか」と質問責めにあった。 日本人からも「だから?」となんども帰国子女本人に反駁され、結局「何を言っているのかわからない」と言われる。

 

つまり、帰国子女は意味がつかめていないのだ。意味をつかむことは時に大変な大仕事で、言葉の「意味」とは一言に言うが、その「意味」が出来上がる背景には文化であるとかその文化が出来上がる背景であるとか、伝統や習慣、社会的な慣習や様々な日常生活の根っこをたぐらないと行けないこともある。そう言う物事に子供の頃からどっぷりつかってある一定の場所に長く暮らし、「意味」を理解し言語を習得したところで海外に行くとそこには様々な「共通」の発見もある。そこからは割と簡単ではないが楽な道のりかもしれない。

 

日本人の行動の軽さは頭の軽さと比例している。こう言うおバカな日本人が帰国子女という「悲劇」を作る。通訳の世界では帰国子女は「ハーフリンガル」であり、「バイ」ではない。つまり、どちらの言語の習得も中途半端であり、見たことも聞いたこともない間違えを行ったりするのが帰国子女である。

 

さて、これから仕事の続きをする。