Kiriko Diary

何でもない普通のブログです。暇つぶしにでもどうぞ。

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帰国子女という悲劇

しかし、それにしても帰国子女の英語は分かりにくい。訳すとわかるが、英語を喋っているようで、実は彼らの英語は文体が英語ではなく「日本語」なのだ。訳すのにいちいち止まって考えなくてはならないことが多く、厄介だ。

 

帰国子女は1980年代に増えただろうか。英語が喋れる帰国子女を見た親が、うちの子もと、自ら子供を海外へ放り出して英語が喋れるようにするために「留学」が盛んになった頃だ。

 

英語や語学関連の「仕事」は間口が広い上に、日本人の語学能力レベルは未だ低く20年前とさほどどこの教育機関へ行っても変わらないため、「英語が読み書きできる」となれば、「国際関係」の部署へ回され、あるいは通訳なども任命されたりする。語学教育だけでなく、教育全般に国が力を入れない歴史の元、民間が手探り状態で様々なやり方を模索し「英語教育」が作られてきているのが日本である。

 

子供の頭が柔らかい時から語学を学ばせた方が良いと、小さな頃から海外に行かせる大人もいる。実はそこが語学教育の大きな間違え。

 

言語能力とは「聞く」「書く」「読む」「話す」が全て一つになって言語能力になる。だから海外に行けば全て身につくと思うのが安直で、そこに大きな落とし穴があることが分からないのが、低学歴で学のない大人の考える現実である。

 

この4つの能力が活きるのは、実はその4つの能力を活かす能力が身について初めて活用できるのだ。それは何か。この4つを連携する1つのものである。それは「意味」「概念」といった思考の基盤である。それがないと「読み書き聞く話す」は、少なくとも人間の世界では意味がない。

 

物事の意味がわからないうちに、海外へ人間を送りそこで何を経験させるのか。実は帰国子女とは日本も海外の現地のことも半分づつくらいしかわからない「中途半端」な人間になるのである。

 

その実日本のことも知らない、海外のことも知らない。が、現地にいた数年あるいは数カ月分の体験は体得した。それだけなのだ。基盤となる思考の底辺にある「概念」を司る物事の「意味」を把握できないまま言葉をかじる。そのレベルで文を書かせると、上記のようになる。外人からも日本人からも、何を書いているのかわからない、何を喋っているのかわからない。喋っている帰国子女本人もわかって喋っていないことはわかっているが、周りの日本人が外人のいるところに連れまわすから、大見得切って堂々と外人の前で意味不明なことを話す。外人は常に「???」である。

 

あたしは幾度も帰国子女と仕事をしたことがあるが、彼らの英語はに関してとある職場で、アメリカ人からもイギリス人からも「一体何を喋っているのか」と質問責めにあった。 日本人からも「だから?」となんども帰国子女本人に反駁され、結局「何を言っているのかわからない」と言われる。

 

つまり、帰国子女は意味がつかめていないのだ。意味をつかむことは時に大変な大仕事で、言葉の「意味」とは一言に言うが、その「意味」が出来上がる背景には文化であるとかその文化が出来上がる背景であるとか、伝統や習慣、社会的な慣習や様々な日常生活の根っこをたぐらないと行けないこともある。そう言う物事に子供の頃からどっぷりつかってある一定の場所に長く暮らし、「意味」を理解し言語を習得したところで海外に行くとそこには様々な「共通」の発見もある。そこからは割と簡単ではないが楽な道のりかもしれない。

 

日本人の行動の軽さは頭の軽さと比例している。こう言うおバカな日本人が帰国子女という「悲劇」を作る。通訳の世界では帰国子女は「ハーフリンガル」であり、「バイ」ではない。つまり、どちらの言語の習得も中途半端であり、見たことも聞いたこともない間違えを行ったりするのが帰国子女である。

 

さて、これから仕事の続きをする。

Being Alone

あたしはXイチだが、一人で居ることに何ら孤独も感じないし、むしろ面倒がなくて精々する。

世の中はここ10年ほどの間にかなり変わり、日本人にも人権や基本的権利というものが何であるかという事がようやくわかってきた様だ。つまりそこまで来ると、もはや前近代的な、あるいは戦争直後の昭和20年代ほどまでの思想やその思想的価値観などといったものは通用しなくなる。あえていうなら、男女雇用均等法の下、性別の如何によらず、仕事あるいは職場における「性差の平等」を求めること、その下にかかる権利は基本的に平等であり、「何人も」当然の権利を主張する権利を持つ。

 

つい20年ほど前までは、「自分の権利」として昼食の時間、残業を断り子供を迎えに行くなどという事を職場で言おうものなら「問題」扱いされ、部屋の隅に追いやられて仕事を減らされるなどの嫌がらせも受けたものだ。平成も終わりに近づき、ようやく本当の意味での「平成」というところに行き着いたのだろうか。

 

これは日本が今まで男尊女卑の封建社会であることを象徴してる。男性優位というのは男性が生物学的にも身体的にも優れているからという事を象徴しているわけでもない。昨今の大学不正入試事件で解った様に、男は「下駄」を履いて入学し、就職する。つまり、男性の「優位」とは「下駄」だったのだ。下駄がなければ大学入試もできなければ、就職もない。学術的な正当な評価、社会的な評価というものは無く、下駄を履いて良し悪しを決める。となれば、一律にた様なもので、皆下駄を履いているから、それならどんな下駄がいいのか、それは下駄の鼻緒で決めるしか無くなる。良い鼻緒つまり良いコネなり推薦なりを持っている者が優位になる。その様な「優位性」の上にできた社会は、自ずといい加減だ。その実、日本社会では芸術の評価も文学の評価も「評価」そのものに対する信憑性が低い所為か、海外で評価された者しか良しとしない様な風潮もある。芸術なんぞはさらにいい加減で、「〇〇先生の推薦」がものをいう。作品の芸術性は二の次なのだ。

 

おしなべてこれが日本の社会であり、日本の男社会であり、その男が牛耳ってきた社会である。そこに近年女性が女性担当の仕事を持ってやってきたのである。下駄など履いて生きてきたことのない女性を男は脅威に思う。当然であろう。女性はそんなことはつゆとも知らないので、権力順位に従おうとし、その権力順位を追おうとする。優秀な女性を憎々しげに思わない男はいないだろう。学力も上位仕事も上位。しかし下駄しか履いたことのない男には、この実力勝負がわからない。女性に対しセクハラ、パワハラで脅かし貶める。それしか下駄を履いてきた男にできる女性との「競争」はないのだ。

 

こんな男は家に居ても同様だ。身近な女性を暴力で持って従わせようとする。ごく普通の行動に難癖をつけ叱りつけ、挙句は手を挙げる。そんな男の横顔が新聞テレビにしょっちゅう登場する。そしてニュースは常に「会社ではごくおとなしい普通の会社員でした」と締めくくる。この「おとなしい」「ごく普通」は下駄を履かせてもらって満足で「おとなし」く、そこで女性を見下している「ごく普通」の男なのだ。それが家にあるいは小さな女児を見ると爆発するのか、わいせつな行為をしてみたり、誘拐したりこういうニュースも後をたたない。

前置きが長くなったが、言いたいことは、こんな男とは一緒に居たくないので、一人でいた方が気持ちよく毎日が過ごせて楽しいということだ。Being alone is better than having a bad friendなのだ。

しかし、こういう思いがごく普通で、ごくごく性格にも生活にも馴染んでしまっている。一人が長いからという理由にはならない。なぜなら、一人が長いとさみしい思いをする、という人もいるからだ。こんな自分が、では、結婚するということになるとそれはどういうことだろうか。常に思うところは何かしら一人では生きる事が難しくなる理由がある場合に限られるのだと思う。

こんなところに考えが落ち着いてしまうのは、恐らく自分の家族背景にもあるだろう。あたしの両親は昔のお見合いをして結婚した夫婦だ。見合い写真を見たら結婚しなくてはならないらしかったが、そんは理由では結婚しなかった。むしろ多少は前向きな形での見合い結婚だったらしいが、それでも二人を見ているとかなり割り切った家族社会生活の様にも思えた。妻、母としての家族に対する役割、夫、父としての役割のみで成り立っていた様な夫婦だったと思う。父も母も恋愛感情があってお互いを助け合っているとは思えなかった。いわゆる「夫婦」という絆では無く、「役割」が彼らの詰まる所の関係だったと思う。そんな両親を見て育ったあたしは、当然恋愛に憧れたが、その両親の価値観を受け継いでいるのだろう。恋愛結婚もしたし複数の恋愛もしたが、結局は一人で落ち着いている。好きな人と別れるのは辛いが、この辛さはこの両親にはわからない感情だった。

恋愛感情がわからない夫婦。「役割」でしかお互いを考える事をしなかった人間関係。役割としての対応を続けて生きてきた人間関係。役割以上は求めないし望まない人間関係なのだろう。人として家族としての共感や楽しみなどというものはない。そんな人間関係の中、病気になるとどうなるのだろうか。答えは簡単である。知り合いの見舞いの様な看病になる。看病といっても適当で、子供が何の病気にかかり、手術の立会いをしなくてはならないなど、一向に気に留める様子もない。むしろ仕事を優先した父親。心配するのは父親本人の病気のことばかりである。母もそんな父のおかげで、自分のことを自分で気にかけなければ、誰も気にかけてはくれないのを知っていて、必死である。

ここで感じたのは夫婦とは所詮「他人」との共同生活であるということ。不愉快なら離婚すればいいのだが、昔の夫婦はそれが許されないし、離婚などとは社会的悪という観念から、離婚は恥などと擦り込まれているので、不愉快で嫌でも離婚はしない。そんなストレスが募り募ると、熟年離婚か精神的におかしくなる。母は晩年、家事がストレスになり、だんだん気を悪くしていった。家事のストレスといってもその辺の若い主婦がやるのではない。80歳に近い、体も150cmにも満たない女性が、年老いて体力もない体で自転車を漕いで買い物に奔走する。父は家でテレビを見て過ごす毎日。母は「疲れた」といってまもなく認知症になった。よほど大変だったのだろう。母が入院してから後、家から自転車で5分くらいのところにある小さな公園に、母の自転車が置いたままになっていたのを見つけた。母は不憫だった。

そういう母に父は「役割」としての義務を押し付けた。これがこの夫婦の結末である。祖母に対しては息子の愛情というよりは「マザコン」の依存症であろう。祖母は自宅介護であったが、ある日重度の肺炎を起こしたが、父は祖母が「もう100歳も過ぎて思い残すことはないから、死なせてくれ」という言葉のままに、重度の肺炎を起こした祖母をそのままベッドに放置した。およそ1週間だったのだろうか。定期的にきてくれていたヘルパーさんが祖母の病状の重大さに驚き、即座に救急車を呼び入院という運びになった。

この手のマザコン男は「母性」や「母」というものの役割は本人の甘えを受け入れ満たしてくれる存在のみである。それだけなので母に対する愛情というものは彼の心には介在しない。甘える対象であり依存的対象であり、本人が親としての自らの母を愛する、大事にするという行為はない。つまりこの母親がこの息子に対してして子供の頃してやった、道具なりおもちゃなりを与えるという行為しかできないのである。非常に幼稚じみた行為である。そして大人になったこの男は本人の母親が病床についているにも関わらず、看病をするどころか、見殺しにしようとしたのである。未必の故意

その後祖母は退院するも、それが原因で脳梗塞になり半年ほど経つと再び入院することとなり、それ以来病院から出ることはなかった。

母に至っては、おかしくなったのは祖母が入院して2、3年後だった。家事が疲れ負担になっていた。それでも助けを求める事なく、生真面目で「役割」果たそうとした母は気丈に振る舞った。がそれが仇となり、だんだんと精神的にもうつ状態になり、果ては認知症になっていった。父が、夫として妻を支えることをしてさえいれば、こうはならなかっただろう。何でも与えられ猫可愛がりされて育った男はただのマゾコン男にとどまり、家族の中ではその醜態を晒しわがままなだけで、協調性のない欲求をただ押し付けるだけの、みっともない男だった。それでも会社ではある程度の地位につき、収入はそこそこあったものの、それも本人の意のままに使うことが多く、母は「私が貯金しなければこの家に金は貯まらない」といつも言っていた。

そして加えて母が言っていたのは「誰も普通しない失敗をする」。父はどうもそういう人らしい。そうだろう。昔の学力レベルで下駄を履いて入学し、下駄を履いて就職をする。そんな程度の男がまともなわけがない。しかし会社に行けばそんな男だらけだ。そんな社会ではうまくやっていく。

母は本当に疲れていた。あの小さな体で一丁懸命役割を果たそうと真面目だった。そしておかしくなった。父は面倒くさそうにしていたのを覚えている。そんな父の口から母に対して「可哀想」という言葉が出たのには驚きだった。この男にもまともな感情というものがあるのかと思った。しかしそれからまもなく父は母を様々な病院に連れまわし、認知症特有の俳諧や興奮が出てくると、強い向精神薬を医者に処方させて飲ませ、母は一言も喋らなくなった。それに驚いた父はあたしの携帯に電話をかけてきたのだった。正直あたしの心は怒りでいっぱいになった。母にそういうことをして、この男は介護の面倒を「省こう」としていたのだ。土日に母を見舞うとソファーに座ったまま空を見てて一言も話さない。直ちにこの様な強い薬を捨てる様に父に怒鳴りつけた。

父はまるで実験が失敗した様な様子だった。母に対する気遣いなどはない。この男は本人を世話し続けて老いた人をどう思っているのか。とんでもない人格の持ち主である。こんな息子でも母親にとっては「特別」な存在なのだった。アジア通貨危機になってもリーマンショックになり日本の景気が落ち込んでも、仕事にありついていた息子を「神童」のごとく自慢した。その息子はその母を見殺しにしようとしたにも関わらず。

こんな親を見て育ったあたしは、男に対しては一定の見解があり信用に至らない。いずれの男も信用はしないし、アラばかりが見えてくる。結果、男と一緒にいて幸せだなどと思ったことがない。寧ろ面倒である。みているとあたしが病気になると恋愛関係であっても男は「面倒」な様だ。決してケアーや心配をする様子はない。男などとはこういう生き物であり、信用に値する生き物ではないのだ。決して何を期待してもいないが、そういう思いやりのない行為を見るにつけ、やはりと思うのだ。

結局あたしにとって相手に見るものは「役割」を通して見る相手であり、恋愛感情までをも利用する男の依存的マザコンであり、それ以上を期待もしなければその相手と関係を継続しようとも思わない「相手」なのだ。

そんな苦労で自分を悩ますより、為になる本の一冊でも読み、知識と教養を増やして趣味にでも勤しんでいた方が、人生どれほど楽しいかしれないと思うのである。

 

 

 

ノート

ノートを使わなくなって何年経つのだろうか・・・。

考えたこともなかったが、気がついたらスケジュール帳も最近はPCやスマホ入力になっている。こうなる数年前は、スケジュール帳が唯一の私が買う紙媒体だった様な気がする。スケジュール帳も今や紙媒体ではなくなってしまった。

 

そうなるとなんだか紙に対する愛おしさの様なものが芽生えてくる。紙を使っていた頃の紙に書き込む事の良さといったようなものが懐かしくなる。紙に書くときの何か緊張感。ペン選びに始まって、紙質やらノートの表紙絵やら、それらの選択も楽しかった。今度のノートはどんな表紙のノートにしようかなんて、よくハンズや伊藤屋のステーショナリーコーナーをうろうろしたりしていた。

 

ペンとノート。これはその昔、日常の必需品で、そもそも人の生活には欠かせなかった道具の一つだっただろう。それがPCに取って代わられた事で、自分の人生とは係わりのないものになってしまったような気がする。最近のペンと紙がいる作業というと、電話のメモ取り程度だ。

 

しかしそうは言っても、ノートを買ってしまう。最近のPCやデジタルブーム、ペーパーレス化の波に飲み込まれるように、ノートは肩身がせまいのか。何気にお店のノートコーナーで見るノートは数が少ないような気もする。しかしそんな波にも逆らおうとしているかのように、時々綺麗なノートを見つけたりしている。そんなノートを見つけた時には、思わず買ってしまう。買うのは決まって無地だ。白い何も無い紙面に、何を書こうか想いを馳せる。もちろん書くのは文字とは限らない。そんなノート作りの楽しさも人生を賑やかにしてくれる。もちろんPCにそんな要素がないというわけでは無い。が、ノートはなにか懐かしさとともに、自分の人生の良かった部分を思い起こさせてくれるような気もするのだ。

 

年に一回ぐらいだろうか。街に出ると新生活の始まりとともにノートも新しいものが登場する。そんな時に街に出た時、出会った素敵なノートは即座にお持ち帰りとなる。本もデジタル化が進む昨今。ノートが無くなる日がいつかくるのかもしれない。しかし、ノートがまだある間は、ノートの楽しさをまだ少し噛み締めていたい。

 

通勤時間

都内に20年余り住んでいたが、最近親が年をとったので実家に戻った。

実家も首都圏内にあるのではあるが、都内にいた時の通勤時間と実家からの通勤時間の違いに、最近疲労が増してきた。

 

以前は大抵のところへは30分で行けた。都内23区なら大抵何処へでも30分。通勤も地下鉄で1本。あるいは乗り換えてもせいぜい2駅で行ける距離。今はまず家からバス停へ行くのに徒歩10分。駅まで10分。電車に乗って1時間超え。

 

こういう生活スタイルの変化は、自らの人生を犠牲にする。通勤時間に時間がかかり過ぎ、仕事の下調べも限られた時間でこなさなくてはならず、それプラス家事などやっていられないのだ。そんな事をしたら身体が持たないので、何かを削らなくてはならない。身体を削るわけにはいかないので、何かの用事を削るしか無くなる。

 

そこで何が一番障害なのか考えてみる。すると、家事であることがわかった。家事は割と大変で、作業そのものは単純であるが、この単純作業がときに重労働になるのだ。家事に割く時間があれば、PCの前で資料の下調べの一つもできるものを、家事のせいでできなくなる、翌日の出勤も考えれば、早々に就寝しなくてはならない。

 

朝は5時に起きて身支度に食事を簡単に取ると7時には家を出る。バスに乗って駅に着くと7:00ぐらいの電車に乗れる。乗っても座れるわけでもなく、空いた席を隣に立つ人と競うようにして先取りする。しかし、座ってのんびり出来るわけではない。座れば目の前に立つ人の足が膝に仕える、カバンが膝に当たる。電車が揺れれば立つ人も時に揺れて前のめりになり、座っている座席めがけて倒れそうになる。満員電車の座席とは、これまた窮屈なのだ。

 

こんな朝を繰り返して、2年が経った。1年経てば落ち着くと思っていたが、2年経っても何だかんだ居心地が悪く、疲労が増して行く感じが抜けない。困ったもんだ。こんな生活いつまで続くのか。1人で暮らしているときは、なんて呑気な生活をしているのかと、親の面倒の一つも目なくてはバチが当たるくらいに思って、呑気な一人暮らしを呪う様に思ったが、実際環境がこんな変化の仕方をするとは思ってもいなかった。全てが甘かったのか。目論見が外れた。

 

通勤時間とは重要な時間配分の一つだ。これが無いのとあるのとでは生活の仕方が変わる。通勤時間はない方がいいのか・・・。以前は気分転換ぐらいの気持ちでいたが。30分は気分転換になるだろう、が、1時間以上は疲労になる。この疲労に打ち勝つために、最近ではサプリメントのお世話になっている。こんな事でいいはずは無いと思うが・・・。手術を2度経験した身体には負担になりすぎるのだ。

 

近くに仕事を見つけたいが、希望する様な仕事はない。これも一極集中の所為だ。となると自分で何か地元で店を構えるのがいいのだろうが、そんな技量は持ち合わせていない。一応個人事業主だが、店を持つのとはちょっと違う。

 

実家に戻って3年目。得策が無いまま月日が過ぎて行く。

時代の変化

最近つとに見かけなくなった風景が、まさに時代の変化を象徴していると思った事がある。

それは電車内での風景だ。

 

世の中は変わったものだ


インターネットやアプリケーションの普及により、新聞が売れないと言われて久しいが、現在の世の中では、新聞を含む紙媒体の読み物はほぼ減少している。


かつてあたしがまだ社会人になってまも無い頃はPCというものは、名前は聞いた事があるが、実物は知らない人もいて、それがどういうものかと言うことは殆どの人が解らない状態だった。企業にあるのはワープロであり、それが書類作成の聖書の作業に使われて、日本語用タイプライターのような役割を果たしていた。そしてその当時の企業はその程度で満足していたのだった。強いて言えば、任天堂のマリオゲームぐらいがブームだったと言うことぐらいだった。


それから10年経つと、PCが企業には無くてはならない存在になる。ビジネスにはPCに搭載されているインターネットで検索や様々な情報を入手したり、社内のイントラネットを活用したりなど、マイクロソフトOfficeも一体化販売され、この2つが無くては仕事が出来ないようになっていった。マイクロソフトOfficeなどは世界中から独占禁止法違反の汚名の元、ヨーロッパの一部ではポイコットも起こったが、それでも普及の方が目覚ましく、マイクロソフトOfficeが無い企業はおよそ世の中には無いくらいの普及をしていった。


そして更に10年経つと、スマートフォンが普及し始める。スマートフォンはスマフォと呼ばれ、それに搭載されるアプリケーションはアプリと呼ばれ、このアプリをスマホの画面上でタップすれば、大概のことは用が済むようになった。今やアプリを通じて金融取引から、買い物、読書など大概のことは出来てしまう。新聞もそのアプリに取り込まれてしまった内の一つだ。ペーパーレスという社会的コンセンサスの元、紙の新聞は新聞屋が潰れる程普及しなくなっていた。


その典型を電車の中の風景に見る事が出来る。30年ほど前、朝電車に乗ると、ギュウギュウ詰の電車の中で、縦4つに折り畳んだ新聞を1/4紙面づつ読んで、押されながら圧し合いながら立っている人も座っている人も、その朝の電車の中での新聞読みがまるでビジネスマンの象徴であるかのごとく、サラリーマンの人々は電車に乗れば新聞を広げ、1日の商いの行く先を模索したりもしたものだったろう。


その新聞は普及しなくなった今、電車の中ではそのような光景は全くといっていいほど見ない。電車に乗る人は、立っている人も座っている人もスマホでゲームをしているか、ラインをしているかだ。たまにスポーツ新聞を読んでいる人を見かけるが、それも新聞の音が耳障りになるほど珍しい光景となってしまった。

東京

東京に住んで20年近くになろうとしている。

東京に住んでいるというと、「東京の人」と、人々は特別な目で見る。

しかしあたしは全然特別には思わない。

 

東京には思うところがあり、つまり「東京なんて場所は住む場所じゃない」ということで、特に住みたいと切望したことはない。

学生時代から東京にはよく遊びに行き、大抵の目星い場所は訪れた。就職をしてからも、飲み会はその辺の馴染みの場所で行うので、対して目新しさや珍しさから来る興味もない。ただ、とある理由から実家を出なくてはならなくなったので、引っ越しできたのだ。東京だと通勤には便利だという利点がある。ま、東京に住むことの利点とはそのくらいだろう。都内なら地下鉄に乗れば大抵の都心の地域へは30分程で到着できる。その位しか東京に住んでいて良いと思うところは、あたしの中では見当たらない。

 

東京に住んでいると、時々耳にするのは「東京にはアイデンティティが無い」という言葉。それはそうだろう。東京で生まれて育った人はどれほどいるのか。ほぼ都内の人口の半分以上は地方出身者だ。なので、東京の歴史を知っているわけでもなく、東京の地理を知っているわけでもなく、憧れや仕事を探してやってくる人々ばかりが集う、つまり、全く違ったバックグラウンドを持って住むところのみを、都内とする人々の集まりなのである。

 

ややもすると、隣に住む人も何をしているのか、語る機会もないくらいお互いを知らない。あるいは隣に住む人が誰であるのかなんて気にしないくらい、個人の生活は家の玄関のドアを閉めれば、完全に外界と仕切られる。

 

しかし、そんな東京住まいも一旦ドアの外に出れば、そこに集まる人は皆違う出身であり、違うバックグラウンドがあるということで一致しているのだ。同郷や幼少の養育経験とその環境に、東京という部分を見出すことはないが、しかし、それぞれが異郷であり、違った、東京ではない環境で育ったという点で共通するのが、東京の人々ということだ。

 

都市というところはおしなべてそのようなところだろう。「都市」であるとか「首都」であると粋がってはみせるものの、その実烏合の衆のごった煮を繰り返す場所が首都であり都市なのだ。それに気づかない人が地方には多い。地方から「出てくる」人が多い割には、「東京に住む人」は元から東京にいると錯覚を起こしているの人も多い。都内にいれば交通機関も季節の変化でダイヤが乱れる。柔な東京というが、その柔な東京にいる人は多くが地方出身者だ。地方と違う気候のせいかあるいは交通の便が良いせいか、危機感を持たない人が多いのか。

 

そんな東京は決して楽に暮らせる場所でもない。

 

カメラマン

カメラ教室で出会った男性。
教室のプログラムが終わり、一段落して暫く間があいた。
すると、ある日メールが届いて開いて見ると、送信者はその男性。

この男性とは、以前教室が終わった後に一緒にお茶をしてメアドを交換した。メアドを交換したのは、この男が立場上さして害が無いとわかっていたからだ。

来たメールを読んで見ると、「写真を撮っていますか?」という事だった。
年長者の歳下あるいは弱い者を気遣う様子。流石に期間が空いているので写真を撮る機会が無いことを気遣って腕が鈍ることを心配してくれているのだろう。「今度一緒に写真を撮りに行きましょう」ということになった。

日にちは日曜日。場所は人混みの多い横浜中華街。時間は昼間のランチの時間。
ゴッタ返す人々で、前を歩く人々の隙間を縫って歩き、何処をめざすともなく暫く歩くと、撮影なんてことは頭の中から無くなっていた。しかし、この男性、いい場所を見つけたのだ。写真撮影にしても良し、ちょいと一休みするのも良し、横浜では最も古い老舗ホテルのロビー。2階を上がると、結婚式の打ち合わせをする人に学生ブラスバンドの練習をする一団がいた。

そのロビーの片隅にあるソファーに腰掛け、2人で写真を見せ合った。この男性はもう何十年も写真を撮り続けているプロである。あたしは一眼レフカメラを手にして3ヶ月のカメラの「カ」をやっと知り始めた人。2人でああでも無いこうでも無いとあたしは写真のアドバイスを受けながら、彼の写真の説明を聞いていた。しかし、いつもの事ながらその男性は、然程写真技術について詳しく突っ込んで教えてくれるワケでも無い。それはそうだろう。何十年もプロとして培ってきた技術技能を、アッサリと持っていかれるワケには行かないのだ。

話もソコソコ1、2時間した後、サッと辺りを歩いて男性は写真を1、2枚撮り、2人でホテルを出た。外はもう昼真っ盛りの時間。昼食も中盤あたりに差し掛かる時間だった。当然あたしたちもランチの場所を探した。どの中華料理店の前も長蛇の列ができている。

この男性は数年ぶりに中華街に来たという。中華街の変貌に多少驚いていた。あたしも彼此20年ぶりぐらいだろうか。とはいえ、さして大きな変化は無いと思った。人を掻き分け縫って歩くがレストランは見あたらない。その男性お勧めレストランだった。「この角を曲がった路地にあるハズ」という男性の言葉を追って路地を進むと、長蛇の列の中程にその中華料理店を見つけた。最後尾まで行くと店から店員が出て来て「ここまでがランチのご用意が出来る順番です」と丁度目の前の年配の女性のところで手を出して示して、そこから後ろの人はランチの用意が無いことを説明した。もうとっくに午後1時を過ぎていた。

それから更にランチが出来る場所をグルグルと探しあぐねて、ようやく辿り着けたのはローズホテル重慶飯店。そこは北朝鮮共産党書記長金正恩氏もオススメであるとツイッターで知り、話題作りにそこでランチをすることにした。午後2時半を回っていた。それでもまだ20分ほど待たないといけなかった。

ランチの間の話といえば、台風の話、救助の話、親の話、とランチにしては重い話ばかりで、特にパッとした話はなかった。一つ言えることはこの時間にしてもヤムチャは頼まなかったということだ。つまりこの男性もお腹が空いていたのだろうと思う。が、立ち回りが悪い。予約も無い上に、人を掻き分けて進む間、その男性に対してなんとも手際の悪さを感じていた。

ランチを済ませると、既に午後4時半近く。それでも暫く外に出て写真を撮りながら、よもやま話をしていた。「どんなタイプの人が良いの?世話をよく焼きそうだね」と言われた。歳上の男これだから困る。女性を世話係としか「考えていない」。別に男の世話を焼くために生きているわけでは無い。自分の人生のために生きているのだ。私の人生と照らし合わせた場合、この男性は、失格。あまりの手際の悪さと立ち回りの悪さには閉口する。

「私はあたしの生活が乱されるような人はダメですね。特に母親に気を遣ってもらって世話を焼いてもらって育った人はダメです。」

そういうと、この男性は「母親に世話を焼かれて育った男はダメか・・・」と呟いた。
夕陽を見送り自宅に戻ってきた。それ以降この男性からメールが来ることはない。